8、高校1年生

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 「私:高嶺]が入学した高校は、学区内だが、やや不便で、電鉄で北方三つ目の駅で、バスに乗り換え、しばらく、南下すると隣に、公園墓地があるというところでした。写真の最後列に「私:高嶺]がいる。「私:高嶺]で11期生という伝統も無いけど新しくも無いという学校でしたが、「私:高嶺]の学年だけ女子の比率が、以上に多く、(他の学年には、みられなかった。)定員360名で男子が約150名、女子が約210名と、あたかも、昔女子高であったかのようでした。

 うつ状態のまま入学したものの、4月の始めのある日に厭世観から1日だけの家出をしました。在籍していた中学校の裏が雑木林の丘が続いていた所で、私は、朝から真夜中まで、彷徨していましたが、深夜に家に舞い戻るという、情けない家出でした。学校では、出身中学の一部の友達しか、この現実を知らされず。やがて、うつ状態から抜け出しました。
 
 トップクラスの高校ではなかったものの、体育とかが、苦手でナンバースクールに進学できなかった友達や、素行不良で内申点は、低いけど、勉強が出来る友達とか、そこそこ、勉強が出来る奴が10名位はいるかな、という学校でした。もっと具体的にゆうと学年で5番以内に入れば、国公立大学、クラスで5番以内に入れば6大学位の合格実績の学校でした。

 課外の部活は、ボーイスカウトで、キャンプファイヤーが、好きだったので、ワンダーフォーゲル部に入りました。最初、部室を開けると、3年生の女子の先輩が多く驚きましたが、これも、たまたまだった様です。 

 最初は、吹奏楽部を覗いてみたのですが、体が大きかったので、大きな楽器を買わされそうになり、辞めました。次に、合唱部を覗いてみたのですが、部員に男子がいなくて辞めました。ピアノを続けていれば、音楽は大好きなので、違う道も開けたかもしれませんが、根性無しなのですよ。

 1学期は、程無き過ぎ去りましたが、期末テストでクラスで3番でありながら、通信簿は、14番。
体育が4。(10段階絶対評価)いつから、体育の評価が駄目になったか振り返ると中学2年位から、運動するのが、かったるく感じ出し、中学の体育の担当教官も、あまり、好かなく、小学校4年から中学1年まで維持していた4(5段階評価)が、中学2年で3に転落したこと。それと、皮膚が弱く、目の粘膜も弱くて、楽しかったはずの水泳が一番嫌いになったことぐらいかな。それと、背が小さかった頃は、同じくらいの背の奴には、かけっこでも喧嘩でも負けたことがなかったのに、なまじっか、背が高くなった分、悪く言えばヒョロヒョロで、同じ位の背の奴には、負ける事が分かりきっていた、喧嘩をすることもなく。成長期の体のバランスが悪かったんでしょうね。ガリに近い体格。

 それでも、「担任の先生]に、一応将来の進路を聞かれた時に、「第一志望は、東北大学の理学部地球物理学科です。第二志望は、気象大学校です。第三志望は、早稲田大学教育学部地学科です。」と「私:高嶺]が、答えたら、「担任の先生]に、「第一と第二は、ちょっと、厳しいけど、第三志望位なら、十分狙えるはずだよ。頭もいいそうだし。願わくば、今からなら上も狙える時間も能力も君にはあるから、夏休みは、怠けずに勉強しろよ!」と言われ。悪い気分はしなかったです。

 夏休みになった。7月の下旬が登山には、最高のシーズン。我がワンダーフォーゲル部も夏合宿に。行き先は「尾瀬会津駒ケ岳」だった。群馬県側から入山。尾瀬ヶ原は、暑くてたまらなかった。木道で、なれない高級な登山靴をなまじっか履いていたので、本来は、尾瀬ヶ原を抜け、会津駒ケ岳へ行く予定が、「私:高嶺]の靴擦れの性で会津駒ケ岳には、行けず、皆に迷惑をかけた。4月に一人入部していた[女の子]の事を気にかけていたのだろう。私の写真の半分は、何気に[その子]の写真であった。気立てが良く、頭も悪くなさそうで、なんたって、趣味が合う(こうして同じ部にいるのだから)のだから。「付き合ってください。」の一言が言えない。優柔不断な「私:高嶺]であった。

 8月にクラスメイト三人と「私:高嶺]で私の母の田舎町(富山県射水市)を拠点とした北陸旅行もしている。金沢、能登半島、そして北アルプス立山登山をしてきた。彼らとは、現在、音信不通だが、一人は、公立大学に推薦入学。もう一人は、立教大学に現役合格を果たしている。もうひとりは、分からない。

 それから、中学時代に結成された天文サークルで、野辺山に?蓙の流星群の観測にも出かけている。

 なんか、あまり、勉強してないなあ。8月の後半に苦手な数学の補修を受けた。苦手といっても、10段階で、8の成績だったけどね。

 2学期には入ると、男子の間で、あいつを、学級委員長にしようと「私:高嶺]が工作したが、失敗し、なんと、「私:高嶺]が、学級委員長に選ばれてしまう。男子19名、女子26名のクラスだったので、女性票が、ものをいうのだ。成績が1番で無くても、相変わらず、生物と地理が、ダントツにできたので、クラスで1番できる奴と勘違いされたのかなあ。私のことを、三浦君と呼ばず、級長と呼ぶ女の子も少なからずいた。

 この高校は1年と2年に三泊四日ずつの修学旅行があった。1年生の時は信州だった。中間試験はクラスで2番、学年で10番となり、高校時代の軽躁的全盛期を迎えていて、このころが、一番楽しかった。

 しかし、修学旅行中に中学3年の時、ラブレターを出した、女の子と何故か、話をする機会がもてたことから、歯車が狂い始める。また、まだ片思いの恋に落ちてしまう。変な錯覚なのだが、もしかして、あの子は、私の事に気があるのかなあ。と勝手に解釈する。アプローチの仕方は、またもや、ラブレター。
徹夜して、自作のポエムなど柄にあわないこともして書き上げた。登校途中の電車を降りる時、手渡しした。でも、肝心な事が抜け落ちていた、相手がどうして答えるか聞くタイミングを、ラブレターに盛り込まなかったのである。あの子は、当日、女の子数人の友達と放課後、図書館で勉強していた。唯一、私の思いを語っていた友達に、「図書館に行って告白して来い。」と言われたが、勇気が出ず、またもや相手の気持ちが分からぬ間抜けな失恋をした。

 これは、「私:高嶺]だけの事ではなく、クラス中の女の子にとって、大事件になってしまい。私の人気は急降下。愛想の良かった数人の女友達にも、暫くの間、無視された。片思いの中途半端な告白?で、うつ状態になってしまい。学校も少し休みがちになった。

 期末テストは、ボロボロで、クラスで10番、学年で60番と凋落した。

 冬休みになった。何処にも旅行に行かなかった。3学期になった。学級委員長などには、選ばれるはずも無く。(本来選ばれない方が良いんだけど、面倒くさいから)寂しかった。1月の途中、体育授業中の何処か?で腰を痛めた。最初は、普通に歩けたが、徐々にしびれて来て、歩くのも辛くなってきた。ある日の朝、和式便器で、踏ん張ったら、完全に身動きが出来なくなってしまった。

タクシーで近くの総合病院に行った。南方の図書館の近くである。整形外科でレントゲン撮影後、即入院となった。腰部椎間板ヘルニアで2週間の入院となったが、思いの他、重症で結局、1ヶ月の入院となった。若かったから、自然治癒したけれど、今だったら、手術しなければならなかったも知れない。少し、女性恐怖症(女生徒恐怖症?)気味になっていたので、看護婦さんに優しくされることで、癒された。薬の中に痛み止めの他に精神安定剤も入っていた様で、毎日、良く食べ、良く眠れた。入院して安心できた面もあった。友達が、沢山見舞いに来てくれたが、女生徒は、1回だけ8人の集団で、お義理の様に来てくれた。

 退院後、重苦しさは、無くなったが、人生にむなしさをも感じていた。もちろん、ふがいなさも。

 人間って、自分って、何の為に生きてるんだ。みたいな。重いが急に膨らんできて、哲学書思想書など、いつの間にか読書中毒になっていた。

 共産主義を正しいと信じていたのに、唯物論では、満たされないなと感じたのもこの頃である。退院後もコルセットを4ヶ月外せなく、安静にしており、勉強すれば良いものを本を読む日々であった。

 西洋哲学も聖書も読んでみたけれど、何故か、インド哲学(仏教)に惹かれていく。